敦賀港のあゆみ

Photo

 三方を山に囲まれた天然の良港であり、古代から栄え渤海使の為に松原客館が置かれていた。鎌倉時代にはやや衰退したと考えられるが戦国時代には朝倉氏の保護を受け、更に安土桃山時代には全国的に海運が盛んになったことから再び隆盛を取り戻し、豪商も生まれた。江戸時代初期には北陸地方などからの米等を運んできた船が多く入港したが西廻り航路の開発により一時的に停滞するが替わって北海道のニシン、昆布等が活気をもたらした。1858年には大野藩所有の西洋式帆船「大野丸」が母港とし、1882年の鉄道開通は港に更なる繁栄をもたらし、1892年には北前船の船主であった大和田荘七(おおわだ しょうしち、1857年 - 1947年)によって大和田銀行が創立された。

 しかし、鉄道建設が延伸されると港は大打撃を受け、海外貿易に頼ることになる。1899年に開港場に指定され1902年にはウラジオストクとの間に定期船が開かれた。1907年に第一種重要港湾に指定され敦賀郵便局が外国郵便交換局に指定されたことから日本からの国際郵便の大半が敦賀港を経由することになった。1912年にはウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(1914年からは東京駅)と金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)との間に走りだした。1918年にはロシアの作曲家プロコフィエフが米への亡命途上、敦賀港より日本に上陸した。1940年8月から翌1941年6月までの間、リトアニア領事代理杉原千畝の発給した「命のビザ」によって、多くのユダヤ人難民がシベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸した。敦賀港は以前以後の幾度も難民を受け入れてきたことから「人道の港」と呼ばれた。

 第二次世界大戦後は暫く石炭の中継港の役割を担うにとどまっていたが、1951年に港湾法による重要港湾に指定され、1957年にはソ連との貿易も復活した。1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し、1973年に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。1999年7月に開港100周年を迎え、記念事業として「つるが・きらめきみなと博21」が開催され、あわせて金ヶ崎緑地などウォーターフロントが整備されて現在に至っている。

Photo慶応元年ころの敦賀港

Photo明治中期の敦賀港

Photo大正中期の敦賀港

Photo昭和初期の敦賀港


敦賀港国際ターミナル株式会社

〒914-0072
福井県敦賀市金ヶ崎町49番1
TEL: 0770-47-5855
FAX: 0770-47-5002

敦賀港鞠山南地区多目的国際ターミナルは、福井県が設置し、指定管理者の指定を受けた敦賀港国際ターミナル株式会社が管理運営を行っています。